三橋が重い瞼をあけると、見慣れた研究室の風景が広がっていた。眩しい。だが心の中には暗雲がたちこめていた。

 同じ建物の中に、彼がいる。

 そう思うと困惑とか何かざわざわしたものが這い上がってくる。
 彼がいる。ということはすなわち手を差し出してくるという事だ。わかっている。だが自分は今、その手を振り払う事ができるかどうか。あちらにいた時の同僚や部下たちの事を思い出して更に暗くなる。
 ゆっくりと車椅子を押しながら、三橋は逃げたい気分で一杯だった。



叶 修悟。


 わずか何年かのうちに急成長し、日本人ではあるものの、アメリカンドリームを鷲掴みしたと呼ばれる男。
 そんな男が、何故?祖国でもあるが、いち企業の、それも社長室ではなく、小さい部長室にいるのか。
 何故?アポイントメントもとらずに急遽その場にいるのか。
 フロアはおろか、会社全体があっというまに混乱した。
 叶修悟が来ている。しかもひと社員が来るのを待っている。

 社員?誰だ?そいつは?

 フロアの廊下は話を聞き付けた他部署の者たちでいっぱいだった。写真は禁止されているのに写メを撮ろうとしている強者もいる。「上」のネットでは大騒ぎになるだろう。この会社でバーチャルネットゴーグルを扱っているのはこのフロアの者しかいない。それは調査済みだ。
 群がる人たちのその間を抜けて、ようやくフロアの入り口へたどり着くと、田島と泉が丁度フロアから出てくる所で鉢合わせした。
「たじ…」
「急げ。見られたくないだろ?」
 スピードの上がった車椅子は、ざわつくフロア内をものともせず、一直線に部長室へと目指す。
 ノックを泉がすると、中からはい!といつもの声。変わらないテンションの篠岡のそれに何故か3人ともほっと息をつく。無理もない。今から会うのは三橋が昔在籍していた場所。開発をしていた場所。そして離れた場所の主だ。
「三橋、田島、泉、参りました。」
 モモカンもシガポも、そして写真でしか見た事ない社長、その他もろもろで座る場所はもちろん、立つ場所にも不都合な状態だ。狭い部長室がこれほどまでに人口密度が高かった事は今までにないことだ。と泉はぼんやりと思った。
「我が社の会議室の支度が整いましたので、そちらに移動しませんか?」
 この場で一番歳をとっているであろう自分の所の社長が丁寧に話し掛ける。
「三橋にもそっちのほうがいいか…。分かりました。いきなりこちらに参ったのは私たちのほうですから。」
 恐縮しているのかいないのかわからない口調で叶が答える。最初のほうは小声すぎて一緒に来た織田にしかわからなかった。
 社長専属の秘書がやって来て、道を作る。まさにモーゼのなんとやら。フロアにいた人々がわわーっと避けていく。
「花井くん、阿部くん、栄口くん!一緒に来る?」
 はい。はい!と二人はとそうそうたるメンバーの中へと入る。
「田島!泉!ちゃんとやってこいよ!」
 水谷が他の課長たち、同僚たちが言えなかった事を言う。
 二人は顔を合わせ、笑うと、親指をぐっと立てた。
 それだけでもう、8割成功したとフロアの者たちは思ったのだった。

 社長室に近い所にその会議室はあった。全員に香り高いコーヒーが振る舞われたものの、一部は緊張のため、一部はこれから何が起きるのかわからないという不安感からそのコーヒーに手をつける者はいなかった。
「さて。」
 社長が進行役をかってでてきた。
「叶さん、本日はどのような用件で…」
「ああ、急にアポイントメントをとらずにこちらに来たのはまず謝ります。」
 叶が口を開いた。貫禄のある声。まだ若造と呼ばれる年代で、叶の社長ぶりはなかなかのものである。
「私がこちらに来た理由は…三橋博士の件です。」
 自分の名前が出た事で、三橋はぴきんと緊張した。
「叶社長、今は三橋も我が社の一員。どのような事でしょうか。」
 シガポが口を開ける。当然だ。三橋は我が社の社員だ。と泉と田島は無意識に三橋を守るような位置へと移動した。後に阿部が「助さん格さんと水戸黄門みたいだった」と笑いながら言うほどの堅固さであった。
 そんな事には全く頓着せず、叶は三橋をしっかりと見やりながら口を開く。
「無論…三橋博士を我が社に連れ戻す為です。」

やはり!

 モモカンをはじめ、課長たち、泉と田島も一緒の言葉を心の中で呟いた。
「三橋は既に我が社の一員ですが…理由をお聞かせ下さい。」
 モモカンが問う。疑問に思う事は一緒だったのだ。
「それは勿論。」
 叶はスーツの内ポケットから薄っぺらい物を取り出した。
「三橋博士がまだ我が社の一員だからです。」
 古ぼけた封筒。そこに書かれた文字は退職届。
「前に郵送でこの退職届を受け取りましたが、私はまだ受理していない。三橋博士は長期休暇という事で、まだ我が社に席があります。」
 皆が三橋を見る。三橋はあ、とも、う、とも取れる声で驚いた顔をしている。退職届を出したら受理されたものとして、考えもせずに浜田と日本にやってきたからだ。
「三橋。」
 社長ぜんとしていた顔が急に年相応のそれになる。
「畠たちも説き伏せた。お前が遠慮する事もない。」
「叶…く…社長…」
「お前がいなくなって、部下の研究者たちも困っている。」
「う…」
 三橋は困惑の表情となる。
「ちょっと待った…じゃない。待って下さい。」
 声をあげたのは田島だった。
「三橋は…三橋の両足はそっち…そちらの会社にいる時に発症したものだ。人ひとりの両足をダメにする会社なのか?」
「それは…」
 叶の声が困惑の色を乗せる。意味が分からない。という表情で。田島を見る。
「田島 く、ん。」
 三橋が驚きの表情で見る。まさか、という顔。
「三橋の両足は病気じゃない。だから今でもバッテリーで動く車椅子に乗っていない。カスタマイズはされてるけど、一般的な車椅子だ。」
 花井がひゅっと息を飲む。
「病院にちょっとアクセスさせてもらった事があんだけど、それに関しては後程って事で。…三橋の足は本人が動かそうと望めば動く。…障害者手帳ももてない。身体、精神、そうだろ?」
 俯いた顔がそうだと答えている。
「三橋の病は心身症。会社にいるのも大変だったろ!」
「う…あ……」
 三橋は田島の顔を見て、何か言おうとしている。田島は「ゴメンな。」と謝っている。
「三橋…」
 叶も初めて聴いたという困惑の表情を浮かべている。
「叶く、ん。は、悪く、ない。」
 しばしの沈黙の後にそれを破ったのは、三橋の小さな声だった。
「オレ、が、弱かった から…」
「そんな事あるか!」
 いきなりの怒声に全員が見る。発言者は阿部。
「あんなとんでもねぇモノ造り出して、万人にも受け入れられるロックをかけて…それを全て奪われて…ならねぇほうがおかしい!」
 「珍しく阿部が正論言ってる。」と泉の呟きに頷きそうになるのを堪えて花井が言う。
「叶社長、ここは一つ、三橋の意見を聴くのはいかがですか?」と言ったものの、自分の声が震えている事に花井はどれだけ自分が緊張しているのかを知った。このあがり症め!と自分を叱咤している間にも会話は進む。
「三橋、お前は帰りたいか?」
 泉の言葉に三橋が震える。ああ、訊かれたくなかったのだ。この質問は。今でも悩んでいる。会社、同僚、部下…様々な顔が浮かんでは消えていく。
「お、オレ、は…」

全員が息を飲む。

「帰れ、ない。」
 でももうここに来て友人知人も沢山出来た。浜田の事も心配だけど、何より毎日が楽しい。
 三橋は一生懸命に語った。

 叶はずっと無言であった。

 心身症はあくまで「症」であり、「病」ではない。どんな症状が出ようとも、病院は何もしてくれない。入院を勧められたが、三橋はそれを断っていた。足が動かなくなったのは自分がおかした「罪」のせいだから。自分勝手に研究し、迷惑をかけてしまった。その罪の意識から逃れる為、会社となった場所に辞表を出し、稼いだ金でアパートを購入した。それは前の者が亡くなり、相続税が払えないという理由で売りに出された日に即金で支払った。ほとんどの金がなくなったが、自由と、浜田が残った。三橋はそれで十分だった。
 たまに浜田に頼まれてネットに潜って色々したが、それも楽しかった。
 泉や田島が越してきて、更に楽しくなった。車椅子という生活だろうが、なに不自由ない生活を送っていた。
 だが、一つの懸念がネットワーク上にあった。それを調べていた者たちは命を次々と落としていた。
 自分が造ったバーチャルネットゴーグルは、今や自らの手を離れ、良い方向と悪い方向へと向かおうとしていたのだ。一番急成長していた田島たち曰くの「会社」もそうだが、ゴーグルを使った犯罪も後を絶たない。
 バーチャルネットゴーグルに対するウイルスに関して、人はあまりにも無知であった。三橋は浜田を介し、さまざまな情報を流した。
 だが、浜田の存在が表に出た時、全ては動き出した。
 三橋は自分が正義だとは思っていなかった。むしろ必要悪として動いた。

 その結果が、今、目の前にいる。正義の塊の象徴である叶であった。

 あの会社に戻れるのであれば戻りたい。のかも知れない。あの研究に打ち込んだ日々を忘れられない。

だけど。

だけど。

 一人よりも、この賑やかな場所が不思議と落ち着いていられるのだ。

 あれからほとんど書く事がなかった論文も。
 あれからほとんど行ってなかった開発も。

 気付いたら始めていた。自分が一番驚いた。

 三橋の先に、無言の叶がいる。何を言われるかわからない。罵声だろう。
 こんな病ともつかない病気になって、勝手したのだ。俯いていた顔を恐る恐るあげる。

叶は。

 静かに泣いていた。

「叶 く、ん…」
 知らず昔の言い方で話しかけた三橋に苦笑し、ハンカチで目元を拭いた叶はすぐにもとに戻った。
「そうか…」
 ぽつり、と呟くと、叶は笑って言う。なら、ちょっとだけアメリカに来ないか?
『はぁ?』

 全員が固まる。そんな近くの料理屋に誘うように言われても驚くだけだ。
 三橋は驚きもせず、首を横に振る。
「ハマちゃん、いる し…」
「浜田か…」
 叶は少し悔しそうに言った。三橋を日本に連れ帰ったのは浜田と聞いているのだ。
「でも浜田は行方がわからないんだろ?」
「あ、会える!」
 三橋が反論する。
「浜田はまだ潜伏しているんじゃ…?」
 泉が三橋の耳元で囁く。
「ハマちゃんは、連絡、取れる!」
「ネットでか?」
 花井の問いに三橋はぶんぶんと頷く。
「あら、浜田くん、前にネット上で事故って、ゴーグル使えなくなったって…」
 モモカンの言葉に詰まる三橋。あのチープなゴーグルは浜田との約束で秘密にしてあるのだ。
「まあ、話したくないならそれでいいわ。」
 すぐに察知したのか、モモカンがすぐに引っ込める。三橋がほっとした顔になると、叶が「後遺症やら体質で使えない用を作ったな。」とズバリ切り込んできた。え!と周囲は三橋を見る。視線と叶の言葉を聞いて、三橋は車椅子上で小さくなる。
 それが明確な三橋の回答であった。
 「やっぱりな。」と叶。更に縮こまる三橋。
 「みせい…き、けん。」と小さな声で理由を述べているのを田島が正確に訳す。
「ああ、未成年とかに出回らないようにか!」
 うん。と頷く三橋。
「どんだけチープなの作ったんだ?」と阿部がぼやく。
「は、半額、以下!」
 へぁ?と驚く。三橋の突然の発言と内容に。
「確かに子供にも使えない事はないな。」
 バーチャルネットゴーグルの金額はべらぼうに高い。だが、機能を制限されてなおかつ金額が安いのであれば、溜め込んだお年玉とクリスマス、誕生日をまるっと使えば買えない事はない金額である。
 それを浜田のみに、浜田の為に作ったのかと阿部が問う。小さく頷く三橋に、その会話を聴いていた全員は始めて浜田に殺意を抱いた!
「浜田が何で潜伏してんのか分かってんのか?」
 泉が問う。小さく頷く三橋はこのまま蟻くらいに小さくなりたいと本気で思った。
「三橋、そろそろ全部吐いたほうが身のためだぞ?」
 阿部の言葉に花井が突っ込みを入れようとしてやめた。
 彼にはあまりにも謎が多すぎる。その一端でも分かれば、さまざまな問題が解決するかも。と思ったのだ。

 果たして三橋は話すのか。

 全員の視線は三橋へと注がれた。