朝、いつもの通りの時間でチャリをこいでいると、後ろから声をかけられた。
「三橋、おはよう。」
 少しバランスを崩して慌てたが、そこはなんとか持ち直して相手の顔を見ると…
「さ…さかえぐち く ん。」
 相手はパッと笑うと「覚えていてくれたんだ。うれしいな。」と答えた。
「あ、お…」
「…お?」
「……おは よ う!」
「おはよう。元気な挨拶、ありがとう。」
 ニコニコと笑いながら栄口と三橋はチャリを進める。
 サッカー部の試合が近いから、しばらく朝錬がない、という話をきいて、三橋はふぅん、と思った。
「サッカー部も実績はないけどね、新設されたばかりの部活よりかは実績残しているから。」
 生徒会との折衝も大変なんだよ。と栄口は話してくれた。
「しかし、楽しかったよね。」
 学校に到着して、1年の自転車置き場に自転車を置きながら、栄口は口を開いた。
「え…?」
 三橋はぽかん?とした表情で返す。
「ん?練習試合。」

 ドキ。
 三橋の心臓が、わからないけど、鳴った。
「今まで点をとることはあっても、点を取られなかったということは一度もなかったから。うれしくてねー。」
 三橋は無言で下駄箱へと向かう。
「次の日の練習なんて、みんな上の空。」
 勝っちゃったーってみんな言ってね。と栄口は続ける。
「みんな、勝つことに飢えてたから。」
 三橋は気づかなかったが、始終にこにこしていた栄口の目は全く笑っていなかった。
 阿部が見たら「タコ栄口」とぼそっと言っていただろう。
「あ、オレ、1組なんだ。三橋は田島と一緒…9組か。頑張ってね。」
 ばいばい、と手を振って、栄口と別れた。そのままほてほてと歩く。

 カツコトニウエテタカラ

 栄口の言葉がリフレインする。
 もやもやが、さらにもやもやして、三橋はぷるぷると頭を振ると、9組へと向かって歩き出す。

 そのころ、1組で自分の席に荷物を降ろした栄口がちょっと巣山を見ながらぽそっと言った。
「ま、あれくらいの嘘はついてもいいよね。」
 今まで点を取られなかったことはなかった。
 次の日の練習が上の空だったことも本当。

 でも。

「その理由は本人にあるんだけどねー。」
 そこまで言えないのがつらい。

 ドタドタドタ…と音がして、何だと見る。泉と田島が走っている。廊下から視線があって「よぅ」と手を挙げられる。
「おはよ。」
 そのままドタドタドタとドップラー効果で消えていく二人の姿に、はて、田島は本当に盲腸だったのか?と疑問が出る。
 まぁ、田島は嘘がつけないから。
 栄口は一人納得して、自分の席に座った。

「た、たじまく ん。」
「おお、走っても痛くないぞー。」
 でも、一度穴開いてるところから内臓がでてきて「ないぞーがないぞー、そんなことはないぞー」って言ってみたかったんだよね、ニシシ。という言葉を聞いて、三橋はふらっとなった。
「変な想像させるなー!」

 がしっ
 言いながら放った泉のローリング・ソバットがキマる。さすがの田島も「がふっ」と数瞬回復できない。
「田島ー、朝からキモいこと言ってんじゃねーよ。三橋はもう野球部の練習にでても平気なのかって聞いているんだよ。」
 むんっと鼻息荒く泉が言う。
「ああ、練習はまだだめだって。再来週から。」
 でも筋トレだけでもやりてーんだよなー。腕がにぶっちまう。とぶちぶちとこぼす。だから見学とアドバイスだけなんだよー。とぶちぶち。
「やめとけ。ドクターストップの話はモモカンにも伝わってんだから、少しでもやったらお前、握られるぞ。」
 握られる、という言葉に田島もタジッとなる。
「な、内臓…ないぞう………」
 三橋はまだそこでグルグルしていた。


 隣のとなりのクラスでも、まだグルグルしているヤツがいた。
「あーべー。」
 いい加減しびれをきらした水谷が阿部の机をバシッと叩く。
 この腑抜け様。どうしてくれようか。
 いつもならなんだこのクソレフト程度は戻ってくるのだが、阿部のオーラは日に日にどよ〜んとなっていく。
「お、花井。」
 その時、阿部のもとに花井がやってきた。ちょうどあいていた席に座って、「今日の天気は晴れだなぁ。」というような口調で話し出す。
「三橋美智也の「別れの一本杉」って歌、知ってるか?」
 反応、なし。
「まぁ、東京にでちまった男をどーするかっていう女の歌なんだけどな。一番の歌詞の出だしがこうなんだ。」

 思い出したんだとさ 会いたくなったんだとさ

 何で歌わないの?と水谷がたずねると「難しいんだよ!」と答えが返ってきた。耳が赤い。歌うのは苦手なのをそういえば、と思い出した。
「でな、最後の出だしがな、こうなんだ。」

 涙 捨てたんだとさ 待つ気になったんだとさ

「女だって待つ気になれる。お前も待つ気になってみろ。」
 なんだったらCD貸すぞ。と言って、花井は席を立った。
「みはしみちや…誰だ、それ。」
 平成世代の典型である水谷にはその名前は知らなかった。だが、花井の言いたいことはわかった。
「ま、そーゆーことだよ、阿部。」
 水谷もそう言うと、自分の席へと戻っていった。
 一人になった阿部は、そのフレーズをリフレインする。

 待つ気になったんだとさ。

 でも、あの球を、受けた自分は待てない。一刻も入部届を持って9組に殴りこみたいくらいの気分なのに。

 待つ気になったんだとさ。

 時間がないのに。時間が足りないのに…。
 その時、チャイムが鳴って、授業が始まった。教科書とノートを取り出す。教科書とノートをペラペラと捲り…止まった。
 最初に三橋の球を受けたときの配球からなにやらなんまで書き込んだ、それ。
 たった1週間ちょい前だったのに、それが何やら懐かしく感じる。あの時の必死の中の喜びに比べたら…今は…

 待つ気になったんだとさ。

 ああ、そうだ。

 ようやくわかったような気がする。待てば海路の日和あり、だ。そうすると、すとんと何かが落ち着いたところに落ち着いた。
 待とう。そう。待とう。
 いつもの表情に阿部は戻っていった。