ぐにゅっ
あ、と思った。
左足に慣れたくもない感触。多分…アイちゃんのだろう。
うんこ、ふんじゃった。
桐青戦の後、阿部曰く「クソレフト」こと水谷のそのいただけないあだ名は返上された。
安心していたのだ。心に平穏が戻ってきたのだ。あの阿部のタレ目の冷たい視線から開放されていたのだ。
油断大敵 怪我一生
何故か水谷の頭にその言葉が浮かんだ。周囲を見回す。誰も見ていない。知らないフリしてこの左足をどければいいだけだ。だが、そういう時に限って気づく奴もいることを水谷は忘れていた。
「あー、水谷、ウンコ踏んでるー」
視力2.0と動物的な反応が…背後からあがった。しまった。後ろ振り向くの忘れてた!
恐る恐る振り向くと、にっこりと田島が笑ってた。そりゃあ、お日様のように。
それから速かった。
なんだーたじまーどーしたー
みずたにがうんこふんだー
えーみずたにうんこふんだのー
うん、みごとにひだりあしー
うわきたねー
えんがちょきったーかぎのんだー
ふるー
ふるいということをしっているということはおまえもしってるんだろ
そらそーだおないどしだし
よるなみはし、うつるぞ
うつらねーだろーふつー
いや、あいつのならありえる
そーかもねーあはははははー
会話が近づいてくる。はっとして見ると、殆どの連中が水谷の左足を凝視していた。
「水谷」
ニヤリ、と阿部が笑った。この顔はイヤーンなことを考えている顔だ。
ああ、左足、動け。はやく、はやく…
「クソレフトは卒業したと思っていたが…やっぱりお前からクソは逃げなかったな」
誰かがプッと吹き出す。…ひでぇ。
「あべ…くん」
ちょいちょい、と阿部の背中を引っ張る者がいた。その者が天使に見える。ああ、三橋…
「何だ?三橋」
表情を全く変えて阿部が問いかける。
「水谷くんは…クソレフト…じゃ、ないっよっ」
ああ、天使の言葉…
その言葉に少しだけ阿部はあっけにとられていたが、こちらを振り向いた阿部はさらに深く冷たい笑みを浮かべている。どうやら三橋の言葉を真摯にじーんと受け止めていた所を見られたようだ。
ああ、悪魔の視線…
「確かに水谷はクソレフトではないな」
うんうん。と全員が頷く。
「でもクソからにげられてねーよな」
田島の言葉に三橋以外全員頷く。…おい。
「安心しろ、水谷」
阿部、全然安心してないから。
「これからお前を…」
ああ、カミサマ…
「…うんこレフトと呼んでやろう」
あああああああああ…
「ガンバレよ、うんこレフト」
「水谷はいいから全員練習に戻れー」
「うんこレフトも頑張れよ」
「な、うんこレフト」
…クソレフトのほうが……………
「みっみっみっみっ」
呆然としている水谷の耳に、羽化したばかりの蝉の鳴き声のような声がかかる。意識がはっとして見ると、三橋が心配そうに立っている。急速に自我を取り戻す。
「な、何?三橋」
キョドるな、泣くな。まだ近くにアレがいる…。
「ひ、ひだりあし…」
「左足?」
思って、はっとした。…まだうんこ踏んだままだった。三橋の言葉にゆっくりと左足を動かす。よし、うんこははずれた。
「…洗ったほうが、いい、よ」
ああ、西浦の良心…
「ありがとう、ありがとう三橋ぃぃぃぃぃ」
「うぉっ」
涙ぐみながら…思わず抱きついてしまった。おもわずかいぐりかいぐりしそうになった時、恐怖が襲った。
「…うんこレフトよか、うんこのほうがいいか選ばせてやろうか?」
し ・ ま ・ っ ・ た 。
ぱっと抱きついていた腕を放し、見ると、おどろおどろしい背景をまとった阿部が立っている。クソレフトと呼ばれはじめた時よか恐怖。デンジャラース!
「…いや、お前にはもう選択権はない」
阿部さんの目がキラリと光った。キョーアクに。
「田島!」
近くにいた田島を呼ぶと、阿部はコソコソコソと話した。ちらりと水谷をみやって「そうなんだ」と言うと、くるりと向きを変えて、これでもかというくらい大声で怒鳴った。
「 1 年 7 組 の ミ ズ タ ニ フ ミ キ ー 、 こ れ か ら う ん こ と 呼
ん で や っ て く れ ー っ ! ! ! ! ! ! 」
あまりの大声に阿部は片耳に栓をした。
あまりの大声に三橋はびっくり眼に涙が浮いている。
あまりの大声(いや、あまりの内容)に花井が頭を抱えている。
そして、あまりのことに…水谷は半泣きになっていた。
次の日、朝練を終え、教室にやってくると、教室がざわめいた。
「おはよー、みず…じゃねーや、うんこ」
「うんこ、おはよー」
「うんこ、おはー」
「うんこ、はよっス」
クラスの男子が水谷を全員うんこと…女子は…冷たい目線。そっちを見ると、そそくさと視線をはずされる。
「どうしたんだ?うんこ」
にっこりスマイルの阿部にふぅ、とため息の花井。
教師からもうんこと呼ばれた。そう、あの広いグラウンドをつきやぶって、田島の大声は全校舎に響いていたのだ。
水谷が「うんこじゃなくて、クソレフトでいいから…もう一度怒鳴って」と田島の好物のパン二つ献上してお願いしたのはその日の昼休みのことになる。合掌。
おしまい。
アホだわ…私…